アートのパフォーマンスとサーカスのパフォーマンス

この2年間で考えることの一つに「サーカスパフォーマンスという形を何かしら潮流にできないか」というものがあります。歴史的に体系化されるとか、学問の対象になるとか、そういった形でサーカス(定義ははっきりしていませんが、なんでもありという意味で最近はこの言葉でまとめて話しています)の地位向上ができないかと思っています。

 

サーカス自体の研究をしている方がいないわけではないし本も数冊出ています。とはいえそもそもまだまだ文化自体が小さいですもんね。なので僕は最近別の文脈にちょこっとサーカスを登場させる、ということができないかということを考えています。例えば、演劇やダンス。ここは挑戦している方もいらっしゃいますね。僕が今主に向いているのはメディアアート、アートの文脈のパフォーマンスです。ここら辺に乗せることができないか、というところを少し考えたりしています。

 

見れば見るほどに「アート」の文脈にあるパフォーマンスと、自分の周辺のサーカスパフォーマンスというのはなかなか違うなあと痛感するばかりです。

 

おぼろげながらルールのようなものが少しずつだけ見えてきましたので、全くすべてを網羅するものではありませんが最近の気づきをまとめておきます。

 

 

この違いは大きいなあ、と思ったのは以下の2点です。

 

 

◼︎アートのパフォーマンスは観客の参加など、「脚本」を積極的に放棄する形が多い

 


Yoko Ono Cut Piece Clip 

これは、サーカスパフォーマンスが「観客を楽しませる」ことが主眼に置かれているのに対し、アートのパフォーマンスが「過程に起きる現象を観察する」ことに主眼が置かれているからだと考えられます。そのため、過程に起きる現象はできるだけ予測不能で予定調和的な結果に向かわないピースの方が望ましいのです。

それを行うために観客や自然現象(氷の溶解や電流などを使うパフォーマンスを見たことがあります)を介入させるという手段がよく取られるのかなと思います。例えば、動画はオノヨーコの「カットピース」というパフォーマンスなんですが、置かれているハサミを使って、観客はオノヨーコの服を切り取ることができる、という作品です。観客が何をするのかワクワクしますよね。そのドキドキは瞬間的な予測不可能性です。

 

サーカスパフォーマンスで観客を参加させる形もありますが、あくまで「サブパフォーマー」としての参加が多いですよね。多くの場合、場を支配しているのはパフォーマーで、必ず「オチ」があります。

 

 

 

◼︎サーカスのパフォーマンスの基本的な価値の根源は「演者が観客にできないことができる(=技術)」ということ

 

僕は最近は自分のパフォーマンスの中のジャグリングの占める割合が下がってきていると思ってはいるんですが、それでもやはり、この価値の根源が「技術」にある、というのは変わりません。

「舞台の上にいる人はできる、舞台の下にいる人はできない、その『できる』に拍手を送る」というのが、サーカスパフォーマンスの産む価値のもっとも大きいものです。

アートのパフォーマンスはそうではありません。そもそもパフォーマーの技術ではなく、上記同様に「その過程に起こる現象をパフォーマーも観客もなく観察する」ものだからです。パフォーマーは問題を提示する人でしかない場合が多いわけです。

 

山川冬樹さんの「「パ」日誌メント」という パフォーマンスプロジェクトがあります。

これは、クライアントに「パ」という言葉を買い取ってもらい、山川さんは1年間「パ」という文字を絶対に発しない、という作品です。言ってしまうと契約不履行でこの「パ」を行ってはいけない期間が延びるわけです。そして、その「どのように「パ」の発話を避けたのか」「どういった場面で「パ」を使ってしまったのか」などの記録をTwitter上で発信していく、というプロジェクトです。

 

これもアートの文脈上は「パフォーマンス」に入るようですが、「パ」を発話しない、その記録をとる、という行為自体は誰にでもできることですよね。(それを思いつくこと、徹底したオペレーションで行うこと、などはもちろんできないと思うのですが、行為として、という意味で。)
 

 

・アートのパフォーマンスにおいてパフォーマーは問題提起者。

・アートのパフォーマンスは提起された問題に対して観客もパフォーマンスも過程を見守る

・予定調和なゴールに向かわない要素の発生を楽しむ

・サーカスパフォーマンスの目的は「観客を楽しませること」

・サーカスパフォーマンスは「オチ」があり、それに向かって構成が組まれる(脚本)

・サーカスパフォーマンスの価値の中心は「技術(あなたにはできないこと)」

 

アートのパフォーマンスというものに関して、一番わかりやすいのは「絵やインスタレーションの人が自分の作品に時間の概念を輸入しようとした時にパフォーマンスという形になる」んだと思います。

 

 

と、いうのが最近感じたことで、じゃあどう文脈に乗せていくの?についてはまだ本当に乗せられるのかどうかから考えて、やるとなれば戦略的に作品を作らねばならないなあ、、、と思っているところです。一度考えた記録として文章化させていただきました。結論はまだまだ遠そうです。。

 

一応お断りしておきますが、ここではどちらが良いとかっていうことを言いたいわけではありません。僕はどちらも好きですし、この定義にはまらないものがあることも知っています。歴史的にも正しいのかも自信はありませんが今の時点での僕の解釈を記録させていただいたのみです。引き続き頑張ります。