PCが壊れてしまっていました、、、最近あったこと。

ご無沙汰しております、おかもとです。

 

時間が空いてしまい申し訳ありません。PCが壊れてしまい、長文を書くのが困難だった&バタバタし通しだったので更新できていませんでした。また今週の日報から平常に戻していこうと思います。つらつらと近況であったことを記載します。

 

■「両国パフォーマンス学会」に登壇させていただきました。

両国の門天ホールであったイベントです。みなさんの発表大変面白かったです。ただ、まだ文脈が弱くお金や人の動きがあまりない業界だという部分もあるとは思うのですが「それを発表して何を起こしたいのか」という話が僕はもっと欲しいなと思いました。「こういうことをやっています」という話は多く、それは大変面白く聞かせていただいたし、「自分だったらこういう協力できるかも」みたいな意見の持ち方ができたので、そこから一歩進んだ話があるともっと活発になるだろうなあ、と思っての意見です。

 

それでいうと僕も「こういうことをやっています」に終始した発表ではあったので、自分もそういうことがもっと言えればなとも感じはしました。ですが、僕のあの場での目標は「ジャグリングの技術をベースとした活動だけではなく、もっとジャグリングを視点として、考え方として活かせる可能性があるかもしれない、ということを考え始めてもらう」という点にあって、そこは少し感じていただけた、もしくは、「そんなものがあるのか一旦岡本を観察してみよう」と思っていただけたのではないかと思います。

 

発表内容としては、ここで言っていることの、もう少し差し迫った内容を発表しました。(僕が「この人の価値の出し方を参考にしたい」みたいなところまで実名をあげたり、4半期毎の目標を入れたスケジュールを発表したり。)

 

自分にちゃんとできているのか、できるのか、というのは非常に身に刺さる思いですが、「こういう風になればいいなあ」がある方々と話をするのは楽しいですね。

 

■自分のスタイルというやつ

最近「自分の人生と繋がっている」と感じられるひらめきがたまにあります。そしてその時作る作品って結構評価していただけたりします。(もちろん、先生から、周りから、とかそういうレベルではあります。)

 

それがどういう感覚なのか、他人に移植できるよう言語化することはとても難しいです。でも何というか「あぁ、僕がちゃんと言いたいことを、余計なものを入れずに言えてる」って思います。その時作っている作品って、箱とか枠とかそういう形になることが多いんです。

 

多分僕は自分の思う綺麗とかかっこいいとかを言いたいんじゃなくて、「綺麗とかかっこいいとか、あなたにとって何なんですか、あなたの視点で考えてみてください」って言う、「考える自由を手渡してあげる」のが好きなんだと思っていて、そういえば一件通った夏の公募もそういう作品だし、冬に展示する作品もそういう作品でした。

 

自分がピンときてて、周りからも良いと言ってもらえる。もちろんまだまだまだまだ未熟かとは思うのですが、もしかしたらそういうのが「自分のよさ」なのかもしれないなというのは、小さくても作る作業があったからこそ気づけたことで、きっとそれを繰り返していくことが僕の「スタイル」になっていくのだと思います。これをどう強化していくのか、というところも考えていきたいと思います。「自分は何もできない、どっちに行けばいいのかわからない」というところから、わずかに成長すべき方向性を持ち始めたようでほんの少しだけですが希望が湧きました。

 

■「ジャグリング」をどこに置くのか

 

さてそうした時に、「自分の中でジャグリングをどこに置くのか」というのは大きな問題になってきます。

 

ジャグリングは、見るべきパフォーマーがいて、見せるものの中心が「技術」である以上、「観客の視点を自由にする」は難しい。それを解決する手段としては例えば観客がどこに座ってもいい、観客がパフォーマーに干渉してもいい、ということを開くべきだと思うのですが、それは果たしてやりたいかと言われると、「うーん・・・?」なわけです。どちらもやりたいこと、ではあるのですが。

 

ひとまずは、僕はできるだけ「観客の感情移入する入れ物」として前に立ちたいなと思っています。観客が僕を通して舞台上で起こる何かと出会う、という形を取りたいなとは思うのですが、もしかするとまだ上記の「う〜ん・・・?」には、「ジャグリングの技術を見せたい」というある種のエゴが捨てきれていない部分があるのかもなと感じています。

 

ここまでは、自分の内部の問題です。

問題である、ということは解決手段とその問題を解決する意義が存在するわけです。

問題を解決する意義は「みてもらえる作品を作るため」。

解決方法は、ジャグリングのエゴを捨て去って完全に別の文脈を目指すこと、もしくは、「サーカス」という「技術」も見せていい文脈を作ってしまうこと、の二つだと思います。僕は、可能であれば後者の方法を取れないかと思ったりしています。

 

■AIの進化は人間の表現を奪ってしまうのか

 

僕のやっているRoom Kidsというチームは文学部の僕以外全員が技術畑・理系脳の人間でよくこういった話になります。

自動でいい写真を撮ってくれるロボットができてしまったら、写真を撮る人間は必要ないのではないか。こういう話になるたびに、僕以外のみんなは「技術には勝てねえ」と言ったような方向になりがちなのですが、僕はそうは思えません。

 

簡単にいうと、AIには感情がないからです。

 

人間は記憶を元に判断し、感情を発露させ、さらに記憶を手に入れて、それを元にまた判断して感情を発露させ、記憶をためていきます。その「記憶のデータベース」が、何かと出会った時に参照されて、合致するものがあればそれに対して怒りや喜びや悲しみといった感動を返す、というシステムだと思っています。また、人間の記憶は基本的に「感情」とセットです。その上でいうと、送信側(アーティスト)の「記憶のデータベース(感動)」と受信側(鑑賞者)の「記憶のデータベース(感動)」の「共感」が芸術体験ではないでしょうか。

 

AIはその時の最適解をデータベースから引っ張ってくる、アレンジを加えて提供する、ということはできるでしょうが、基本的に「共感」というものを作り出すことはできません。AIのデータベースは感情に基づくものではないからです。AIの作った作品を見ても、「ああ、これが今の自分に渡された最適解ね」という感覚の方が勝ってしまうはずだと思うんです。

 

AIが感情を持つと、もしかしたら感動できる作品が生まれる可能性があるかもしれません。ですが今のところ、感情の研究以外でAIに感情を持たせる意義はないのではないでしょうか。そして、感情を持つということは判断にバイアスがかかるということであり、万人が感動する作品はできなくなる、というループに入る気がします。

 

まぁ、レトリック遊びなので確たる理屈は一つもありませんが。

ものすごく根本的に幼いことを言うと、僕はやっぱり人が「これが好き」といって作ったものや、その「好き」という気持ちに対して感動するなあ、と思ったので、AIに人間の表現活動が奪われることはないと思っています。

 

つらつらと話題にも一貫性がなく失礼しました。今週からまたしっかり書いていきます。